シンガポールでいちばん魅力的な観光スポットか、それとも地獄か? その謎を探る

両親に初めてハウパー・ビラに連れて行かれたのは、僕が6歳の時でした。子供だった僕は、びっくり仰天!不安定な木の船に乗り、ぽっかりと開いた龍の口の中に向かって水路を下りながら(90年代には、通路ではなく水路を流れ抜けるコースでした)、滑らかに動くロボットの龍を見るのだと思っていました。悲しいことに、僕を待ち構えていたのはもっとすごい恐怖でした。目にしたのは、さまざまな罪を理由に、さまざまな方法で悪魔の拷問を受けている、粘土で作られた小さな人形でした。その後2週間、おねしょ付きの悪夢が続きました。ほとんどは、頭部が人間のカニが僕の爪先を巨大なハサミで切り取るという夢でした。

僕や友達のほとんどにとって、ハウパー・ビラは観光スポットというより、むしろ訓話のテーマパークです。盗みをするな、嘘をつくな、絶対に姦淫するな。僕らは、こうした教訓を教え込まれています。今でも、頭部が人間のカニを思い出します(いまだにカニは好きになれません)。

ただ、時代は間違いなく変わりました。長さ60メートルの龍は取り壊され、入場料が撤廃され、来園者数が減って、ハウパー・ビラは今、魅力的な観光スポットになっています。ぜひ、ハウパー・ビラについて皆が知らない5つのこと、ハウパー・ビラの歴史がいかに家族愛を中心に展開しているかについての記事をお読みください。 

1. タイガーバームからハウパー・ビラへ

頭痛がしたり、膝小僧が痛んだりしたとき、何に救いを求めますか? もちろん、タイガーバームですよね。1870年代に発明されて以来、この便利な瓶入り軟膏はずっと、私たちの痛みを癒やしてきました。でも、タイガーバームを陰で支える男たちがハウパー・ビラに関わりがあることをご存知でしたか? 薬草商を営み、タイガーバームの発明者でもある胡子欽氏には、胡文龍、胡文虎、胡文豹という3人の息子がいました。3人のうち、胡文虎と胡文豹は非常に仲が良かったのです。事実、文虎は弟の文豹をたいそう可愛がり、1935年にはパシ・パンジャン・ロード沿いの丘の中腹にある敷地を入手し、US$ 195万をかけてビラを建築、「タイガーバームガーデン」として呼ばれるようになりました。後に、タイガーバームガーデンは、この兄弟二人の名前にちなんで「ハウパー・ビラ」と名称を変えました。

2. 本当のハウパー・ビラ

文虎氏は、弟のためにテーマパークを建てただけでは飽き足りませんでした。タイガーバームガーデンの残りの部分を構想する前に、文虎氏は、シンガポールの近代建築運動の旗手である建築家の一人、ホー・クォン・ユー氏の助けを借りました。ホー氏は、海を360度見渡せるようにするため、ビラを丘の頂上に立てることにしました。ビラは、中央ホール、寝室2つ、応接間、化粧室、食堂の全6室。ホー氏はいつも好んで強化コンクリートを取り入れていたため、建物の曲線や形状のドラマチックな演出が可能になり、環状の6つのドームと中央ドーム1つの個性的なビラが誕生したのです。1930年代には、タイガーバームガーデンのビラは、シンガポール史上最も美しい邸宅の1つと見なされていました。

3. 伝説のタイガーカー

丘の頂上から楽に降りてこられるように、胡兄弟は特別な「タイガーカー」を作りました。初代タイガーカー(ドイツNSU社製)が製造されたのは、1927年のことです。ラジエーターをトラの頭が覆い、その顎から2本の牙が突き出ています。2代目は(英ハンバー社製)は1932年製造。トラの両目に赤い電球が1つずつ仕込まれています。この2代目タイガーカーのナンバープレートは、福建語の「末永い繁栄」と発音が似ている「8989」でした。ちなみに、タイガーカーはタイガーバームブランドの効果的なマーケティング資材にもなりました。今も、ハウパー・ビラの当初の車庫に置かれた姿を見ることができます。

4. 日本軍望楼

文虎氏のタイガーバームガーデンが完成したのは1937年ですが、弟の文豹氏がそこに長く住むことはありませんでした。ビラ完成後まもなく、東アジア全域で第二次世界大戦が勃発。文虎氏は香港へ移り、文豹氏は香港へは行かず、故郷ビルマに戻ることにしたのです。1942年、日本軍がシンガポールを占領すると、日本兵は海を行き交う船を監視する望楼としてビラを使用します。後に日本軍は降伏し、シンガポールから永久撤退。ビラは、日本軍降伏を憎む近隣の住民の手で破壊されました。香港からシンガポールに戻った文虎氏を迎えたのは、荒廃したビラと弟がビルマで死去したという知らせでした。文虎氏は、ビラを修復せず、破壊された残骸をきっぱりと撤去することにしたのでした。

5. ハウパー・ビラの記憶の名残

戦後、文虎氏の甥、胡昌耀氏がハウパー・ビラの運営を引き継ぎました。昌耀氏は、民間伝承をイメージした彫像を増やすことでおじのビジョンを維持しようと努力しましたが、ハウパー・ビラは時の試練に耐えられませんでした。90年代後半までに、法外な入園料のせいで来園者数が急激に減少し、S$ 3000万の損失を計上。見学者数の減少とアトラクション「十大地獄」の悪評により、伝説や幽霊話が多数生まれます。ハウパー・ビラは地獄門と噂されたこともありました。警備員は未だに、夜の園内がいかに活気づくかを語り、彫像は実は人間の死体を蝋人形にしたものだと話しています。園内を巡回する際、警備員は相変わらず、庇護を求めて特定の像の前に食べ物やタバコを供えるのだと言います。

奇妙で、時にはグロテスクなこともある像や彫刻の他に、ハウパー・ビラは弟への愛情から作られたものであったという事実に目を向けることが重要です。それが、中国のルーツ、家族の大切さを文豹氏に気付かせる文虎氏なりのやり方でした。今、ハウパー・ビラを訪れると、調和と家族を象徴する円形のモチーフが目立つように使われていることに気付くでしょう。それは、こういった理由からなのです。ハウパー・ビラは単なる贅沢な贈り物ではなく、ビラの真っ只中にいるすべての見学者に「いちばん大事なのは家族である」ことを思い出させる役割も担っているのでしょう。